「情況」誌 2013年7-8月合併号より


—まず、お生まれからお聞きします。

 

 一九三八年二月に生まれました。届けは三月になっているけど、二月です。東京都荒川に生まれて、戦争が始まって、疎開した。終ってから台東区に行ったということです。

 家族構成は両親と子供四人。 姉と兄、私と妹です。

 一九四四年四月に荒川区の第六峽田国民小学校に入った。入学して、二学期になったら、急に生徒がいなくなった。 三年生以上は、福島県の土湯温泉へ集団疎開し、私の姉は四年生で行ました。残ったのは、一・二年生だけで、学校はがらーんとした。 子供心に、なんでだろうなと思った。

 わたしが戦争の雰囲気を最初に感じたのは、四歳になったばかりの時、四二年の四月、ドゥーリットルの東京空襲があった、ミッドウェー海戦の二ヵ月前です。この奇襲攻撃を受けてミッドウェー海戦をやり日本海軍は負けた。その時、荒川の家の二階にいて外を見たら、双発の爆撃機が飛んで行った。遠くの方で高射砲の音がタンタンって二発ぐらい聞こえたのを覚えている。これが最初の体験です。後で聞いたら、荒川区と北区の境に、旭電化の工場があってそこが爆撃を受けたらしい。赤レンガで目立ったから狙われた。空母ホーネットから爆撃機が発艦して奇襲攻撃した。空がまっ青で、あれー、これはどういうことなんだってびっくりした。その頃、幼稚園に通っていて、傷痍軍人がいっぱい来て、その人の話を聞いて、戦争で兵隊さんがずいぶん怪我したりしているんだなと思った。もう一つは、わたしの叔父が市川の兵営で衛生兵をやっていて、そこへ二回ぐらい慰問に行ったことがある。だから、兵営の雰囲気もなんとなくわかっていた。それから、空襲が激しくなってきて、四三年にはアリューシャン列島のアッツ島で日本軍が玉砕する。 日本で初めてだっただろうな、タラワより先だったと思ううけれど。

 

—すぐ公表されたんですか。

 

 そうです。アッツ島玉砕の展示会があって、連れられて見に行った。山崎大佐以下が米軍と戦って玉砕していく、そういう模型の展示もあった。その後、空襲がはげしくなってきて、四四年の二学期、集団疎開で上級生がいなくなった後、東京にはB29が飛んできて、 夜間爆撃が行われたり、昼間も飛んで来るようになった。 これは偵察で、成層圏から高高度に飛んできた。 下から高射砲をどんどん撃つんだよ。だけどそれが届かないわけだ。外で見ていると親父がとんできて、「高射砲が爆発したらその破片がばらばら落ちてきて、頭へ落ちたら死んじゃうぞ」と親父にどやされて、防空壕の中へ飛びこんだことがありました。

 空襲がはげしくなって、とにかく、夜中は防空頭巾を枕元に置いて、洋服を着たままで寝て、ラジオは付けたままだった。すると、「空襲警報発令!」、そのうち警報が鳴りサイレンがウーウーって鳴る。同じ空襲警報でも、横浜鎮守府の海軍が出すのはラジオではチンチンって鳴り、「空襲警報発令!敵機は相模湾上空にあり、帝都に侵入しつつあり」と言う。それは鮮明に覚えている。とにかく警報が鳴ると、兄と妹と三人で防空壕の中へ飛び込んだ。それから、東京の上に艦載機が来て一〇〇機以上が入り乱れて真黒になるほどの空中戦も見た。ある時、飛行機が火を吹いて落ちて行った。米軍のだと思ってわーってみんなで拍手した。 ひょっと見たら日の丸なんだよ。それが千住新橋の方へ落っこちたんだ。 これは、三〇年以上前になるけど新聞にその飛行機のことが出ていた。また朝見ると、偵察に来たB29が一機悠々と寒い空の上を飛んでいる。すると日本の戦闘機が下から急上昇しながら両翼から火がパッパって光りタッタッタって音が聞こえるんだ。B29に下から機関砲を撃って攻撃するんだ。そんなのを見たり、それから夜中にはB29が探照灯にとらえられてバンバン撃たれているところとか、そんなこともおぼろげに覚えている。空襲が激しくなって、ある雪の日には、兄と妹と三人で防空壕にいたら、昼間のどんよりと曇っている日で、ヒュル、ヒュル、ドーンという爆弾が落ちていくんだ。遠くだから、ヒュル、ヒュルって聞こえ、そしてドーン、ドーンと爆発する。ある日、防空壕から空を見たら、艦載機が超低空、 二〇〇メーターぐらいのところを三機か四機、飛んで行ったんだ。それからタンタンっていう音がした。高射砲はそばで鳴るとタンタンって音なんだ。はっと思ったらズーンという音がしてゆらゆら揺らぎ、そして黄色い煙がもくもくもくって、家の中に入ってきた。白い煙が立ち込めて、家から五〇~六○メーター離れたところに小型の五〇キロ爆弾が爆発した。二〇〇キロ爆弾だったら我が家もすっ飛ばされただろう。斜前の家に落ちた。ズズズーンと腹に響く音がして家がゆらゆら揺れて親父が飛んできた。 親父は「もう空襲警報が鳴ろうが、どうなろうが知ったこっちゃない」と言って、家で寝ていたんだけど、さすがに慌てて防空壕に飛びこんできた。外へ出ていったら、斜前の家が二軒すっ飛んで丸い穴があいていた。 物干し台で見ていた家のおじいちゃんとおばあちゃんが、すっ飛ばされていなくなった。空襲はひどいと思った。

 四五年の三月一〇日東京大空襲の直前、一週間前かな、上野駅から汽車に乗って疎開した。当時、汽車の切符なんか手に入らないけれど、わたしの家は軍需工場やっていて、芸者さんとか、上野駅の駅長の娘さんとかみんな徴用工として働きに来ていたんだ。その縁で切符が手に入ったんだ。あんまいい話じゃないけど。母に連れられて、やっと宮城県の小牛田に行き、仙北線に乗り換えて佳景山という駅で降り、そから一○キロぐらい歩いた所で北上川のほとりだった。 家の親父の弟の奥さんの実家なんだ。親父の義妹は、家にお手いさんとして来ていたんだ。昔よくあった習わしで謂わば嫁入り修行。 それで親父の弟と一緒になった。ぼくらは旦那さんの家族ということで大分優遇されて、 そこでは嫌な思い一つもなかった。当時、戦時の雰囲気で子供ながらに思っのは、「日本の兵隊さんはなぜ強い、大和魂をもっているからよ」と、幼稚園で歌わされた。 出征兵士がたすき掛けで出て行く時、家の前に立って激励を受け、「万歳!万歳!」と見送りの人たちがして、「勝ってくるぞと勇ましく」 を小学生のブラスバンドに続いて歌いながら駅まで見送っていくことが何回かありました。 それから覚えているのは、サーベルを腰に吊るした白い詰襟のおまわりがオイ、コラっと言って威張ってたこと。

—職人さんだったんですか。

 関東大震災の時には、東京に七軒町ってあったけど、今で言えば台東区白鴎高校のすぐ側で家具屋さんの集まりだった。ところが、関東大震災でみんな焼けて、家具屋さんがそこへ戻ってきたら、トンカンやるからうるさいと言われだした。 それで、荒川区三河島へ親父たちが移ったら、東京中の家具屋が集まってきた。三〇〇軒くらいあったんじゃないか。一人でやっている人から、二〇人抱える親方もいた。わたしの親父は、五人衆と言われた親方で、二、三〇人職人かかえている親方の一人だった。けっこう裕福な家だった。親父は、職人に医療とか保障がなく、あまりにも無権利でまずいと考え、職人の生活を守るために協同組合作ろうと提案した。 それで、協同組合を作るために何人かの有力な親方が集まって学習会をやり、せめて医療だけはちゃんと保障しようと話し合った。日銭を稼いで生活している職人の方が多いんだから。それに伴ってマルクス主義の勉強も親父が中心になってやったらしい。

—そういう傾向にあったんですか。

 

 親父達は左翼だよ。それでマルクス主義の勉強をやっていて、治安維持法で親父たちはパクられたんだ。

—それはいつごろですか。

 戦前親父はパクられて、臭い飯食って出て来た。べつに共産党に入ってたわけじゃないけど、特高にさんざんやられたんだろう。その後、物価統制令があり商売にならなくなり、その違反で親父たちは検挙されたこともあるらしい。そのうちに、もう家具は売れなくなり、職人さんは戦争に引っ張られ、だんだん寂れていくしかなかった。 その時に、親父のとこに造兵廠から持ち込まれたのは戦闘機の増櫓の制作だ。当時、増櫓は航空ガソリンを入れてジュラルミンで作るわけだ。ところが、もうジュラルミンがないので、親父は考案してベニア増櫓を作ったんだよ。

—それ、 もれたりしないんですか。

 そりゃあ、空中でもれないようにするわけだから大変なことだ。なんとか完成させた。家には軍需指定工場だから板橋の造兵廠から、少尉、中尉クラスが来る。 それから、徴用工がいっぱい来るわけだ。 うちは工場が二カ所あって、一方には軽機関銃とか、三八式歩兵銃も何か置いてあった。 実弾はなかったが鉄兜もあって、徴用工を軍事訓練する。そういうこともやっていた。

—その前に治安維持法でやられたと。あんまりそういうのは影響なかったんですか。

 日共党員じゃなかったから影響はなかったらしい。ただ戦後、親父が死んだ後、母が言うには、「この戦争は負けだ、こんなベニア板で増櫓を作るようでは勝てっこない。日本とアメリカでは生産力が違う」って親父が言っていたそうだ。その話を一度佐々木慶明に話したことがある。うちの親父は戦争は負けだって言ったぞって言ったら、そしたら、佐々木は「えっ、そんな人がいたのか、家の親父なんかは絶対勝つと確信していたよ」って応えた。親父みたいに思っていた人は、あんまりいなかったんだな。そんなことで、軍需工場やっていて、軍人が相当威張っているというのはわかった。例えば当時、お米などを田舎から持ってくるんだが、田舎の駅はなんの検問もないけど、東京駅、上野駅はおまわりの検札があって降りられないんだ。そうすると、家に来ている清水中尉に頼むわけ。中尉が飛んで行って、先頭に立って米を持ち出しちゃうんだ。おまわり、駅員は敬礼して、なんにも言えない。三輪車で行って米とかを持ってきた。それはいい話じゃないけど。軍需工場をやっていたおかげて親父が死ぬまでは、白米しか食ったことがない。だけど、戦争が迫っているというのはひしひしと感じたね。

—いわゆる活動家には東京出身の人っていうのはあまりいないですからね。

 戦争体験を書いているのは、たぶん中核派でも田川さんくらいかな。うちの党派でもいないし、ブントにもいるかなあ。まず、徴兵、軍隊経験のある人はほとんどいない。ML派のT氏ぐらいでしょ。軍を脱走して逃げたというすごい人がいるというのは聞いたけど。新左翼には地方出身者がほとんどで、空襲体験のある人はいないよね。もちろんわたしが体験したことは、米軍と日本軍と両方にやられた残虐な体験をした沖縄の人たちに比べたら、微々たるもんだけど。 また、私がかろうじて逃れた三・一〇東京大空襲では一〇万人が死亡し、広島、長崎の原爆投下の残虐な帝国主義戦争の実態を知ったのは一七歳、定時制高校に入った頃だった。

 

—四人に一人が亡くなってますからね。

 宮城県に疎開した後、親父が工場を秩父へ引っ越しさせた。宮城県は空襲もないし、周りの人が親切で、疎開した子へのいじめもなかった。みんなが遊んでくれた。 わたしのお袋は、毎日のように、三時のお茶にあっちこっちに呼ばれて行ったという。東北の人は純朴で、嫌な思い出が一つもない。 その後、秩父へ引っ越した時、牛車に乗ってずっと駅まで何キロか村道を通って行くわけだが、村人がみんな出て来て手を振って送ってくれた。そういう思い出があったな。それで、秩父へ行く途中常磐線に乗って荒川の三河島を通り、熊谷の方へ行った。三河島は一面焼け野原で何にもないわけだ、わたしの家も焼けたことが分かった。それを見て、うー!と胸がつまされたよ。

—線路はあるんですか。

 線路は爆撃されていなかった。紙と木の家だから焼夷弾で焼いちゃえ、ということだったろう。だから、東京の空襲というのはすごいんだ。

—線路はやってないということは、アメリカは後のことも考えてた?

 

 家の工場がある秩父へ行った。秩父へ行った頃は、道生というところに、関根、紀久文、 町田と、秩父の有力者だった家が三軒固まっていて、 紀久文の息子というのは何代目かは知らないけど、共産党員で大森銀行ギャング事件を実行しているんだ。だから、戦前、 支配階級の中にも左翼は出ているよ。親父はそのうちの関根さんと共同で工場をやったわけだ。荒船清十郎という、後の代議士も来ていた。 熊谷の方が焼けているとか、いよいよ秩父も爆撃を受けるのではないかっていう話もあった。 そしたら、親父が今日は重大放送があると話した。

—あれはばっと伝わっていたんですか。

 親父は、その日重大放送があるからみんなに聞けって言ったんだ。日本が負けたということらしかった。 一緒にいた若い渡会さんという人が「日本が負けた。米軍が来たら皆殺しになる。 アメ公が来たら、一人でも二人でも殺して、わたしも死ぬんだ」って言った。空を見たら、真っ青だけど雲がちぎれていたことを覚えている。その翌日あたり、 米軍の戦闘機がデモンストレーションで、低空をブァーって飛んでいた。ちょっと話は遡るけど、秩父に引っ越してきた頃、秩父の山の中に米軍が来たら戦うということで日本兵がいっぱ駐留していた。 秩父の山の中に要塞を作って、関東に米軍が上陸して来たら決戦すると兵隊はかまえてたんだよ。 兵隊は、時には昼間秩父の映画館へ来た。映画館といっても椅子ではなく座敷だった。小隊長に連れられて一個小隊ぐらい来た。小隊長がでっかい顔していて、見ててもすぐに分かった。怖いぐらい殺気だって、軍刀をぐらって抜いて、かざして見ているわけだ。もう玉砕だという雰囲気は子供として感じた。

 お親父は敗戦だと事前にわかっていたみたいで、「ああ、戦争終わったな」と言った。翌日かな、てんきゅうほうってラジオで言うんだよ。なんだろうと思ったら天気予報なんだ。戦争中はやらなかったから、親父やお袋が「天気予報なんて何年ぶりだろうね」って。戦争が終ったから天気予報を再びやりだしたわけだよ、父も母も“うわー、よかったな”という感じだったね。とにかく戦争負けたと。そしたら、家の工場にいた東京から一緒に来ていた工員さんがいっぱいいて、そのうちの竹野のおばちゃんが「圭ちゃん、勝利の日までという歌を歌っていたけど戦争に負けちゃたね」って。“勝利の日まで、勝利の日まで”って、そういう歌を歌ってたんだ。他にも「出てこい、ニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄に逆落とし」っていう歌もあった。戦争終わってから、レコード盤全部捨てちゃって、ないけど、ただ詩は残っている。それから、「君も行け行けわたしも行く、誉れの海軍志願兵」とか。そんな歌を子どもも歌った。

—戦争終わった後も秩父にいた。

 焼けたから東京へ帰れないでまだ居た。まだ親父生きてたから、生活はなんとかなった。 小学校二年の九月ぐらいか、小高い山の上で国道を見ていたら米兵が来るんだ、完全武装で一個小隊五〇人くらいかな、着剣して銃を構えてそろりそろりと道の両側を来るんだ。 行進ではなく中腰でそろそろって来るんだ。米軍はすごいなあって感じた。日本軍に比べたら服装も体格も全然違う。「米軍がきたら、女は男装させろ。それから山の中に逃げろ」と言われた。女は暴行されるってなっていた。 子供心にそう信じ込んでいた。ところが一ヵ月も経ったら、もう米兵は短剣一つで町中をジープを乗り回していた。アメ公っていうのは陽気だった。勝ったから絶頂期で、勝者の余裕というのか、当時大人の悲惨さを知る由もなく、子ども心には明るく見えた。

 

—明るいですよね。

 

 勝ったものの余裕だったんだろうな。四六年の二月に親父が死に、母親と小学校五年の姉と三年の兄と二年生のわたしと小学校に入ってない妹だ。 それが秩父の山の中へ取り残されたわけだ。疎開した子も、集団疎開した人も、縁故で行った人間も大変だったらしい。当時は食い物もないし、散々いじめられた。ましてや母子家庭だから、騙されて、金だけ取られて炭を持ってこないとか。いじめられたり、殴られたり、蹴られたりもした。疎開人と言われた。私は映画館で苛められ、悔しくて木刀でぶん殴り返した。 そしたら、五、六年生、二、三人から目茶苦茶に殴られて大の字にひっくり返って、わんわん泣いたのを覚えている。学校行ってもガキ大将のいじめっ子がいていじめられた。ただ、担任の辺見先生が、お前が悪いって言ってそいつを怒ったよ。中にはそういう人もいた。どこもそうだったらしいよ。 安部さんに聞いても、山形に疎開して来た人間もひどい目にあったそうだ。

—戦争の終った後は?

 わたしは、親父が死んだ時に、これでわたしの人生は駄目だな。たぶん浮かばれないと、子供心に思った。それで、秩父には嫌な思いしかないから、結局、母親は東京へ帰ってから他の人がドライブで連れて行くと言っても、嫌だと言って、一度も秩父へ行かなかったね。わたしの家は、道生から町はずれに引っ越した。 隣の家が田代さんという家で、二〇歳ぐらいの兄さんがいて、よく遊んでくれ手をつないで河原へ行ったりした。わたしのことを非常にかわいがってくれた。聞くところによると、秩父困民党の田代栄介さんの孫だった。奇縁と言えば奇縁だけど、その人には非常にお世話になったし遊んでもらった。

 小学校四年の秋、東京の三筋町に帰って来た。おじの家の脇に、あばら家を一軒立てた。親父は軍需工場をやっていたから、戦後のインフレとか預金封鎖があったけれど、生活できていた。だから、お袋がちょっと才覚があれば、東京へ来て家を建ててタバコ屋みたいな店をやって、後はアパートでも建てていれば食っていけたけど。ところが、お袋は、飾り職人の子ども一三人のうちの次女で、騙されて金巻き上げられ、そういう才覚がなかった。親戚にもやられた。そういうことがあって、結局、水道もない、壁もない、畳もない、天井もない六畳一間の家に、親子五人が押し込められた。

—まだ、いわゆる町はできてなかった。

 それでもまだ少しは投資した会社なんかもあったから、細々とは食っていけたんだ。その投資した会社にお袋の弟たち、特に悪いのが一人いて、当時のお金で二〇〇万とか三〇〇万円使い込みをやった。それで、わたしの家は傾いちゃって、わたしが中学校一年ぐらいから金がなく、学校へ弁当を持っていけないでフラフラになった日もあった。友達がパン一個くれて、そのパンのうまかったことを覚えている。もうどうしようもないと考えて、中学二年の夏から夕刊新聞配達を始めた。当時アメ横だ。 それから親戚の仕事手伝ったりして、三年になったら朝刊も配らないと金が足りないということで、それもやった。わたしは学校の予習、復習をやったことがない。中学三年の時は遅刻や欠席が多かった。その頃、貧しさがどういうものなのか身にしみて感じた。それでも、小学校六年まではまだ食べていけたけれど。投資した会社が傾いた後、急激に困窮してアウトになった。

 わたしが階級意識に目覚めたのはわりと早い。 小学校四年の時に、東京へ引っ越してきて、蔵前の近くの精華小学校に転校した。だから蔵前の国技館にはよくタダで見に行ったよ。それで、小学校四年の時には疎開先からどんどん人が帰って来るわけだ。わたしが帰ってきて入った四年生のクラスは、一クラス七〇人以上になった。 多くなり五年の時クラスを二つに分けた。担任教師のひというのが金持ちの子どもだけを自分のクラスに持っていき、わたしら貧乏人の子どもは二組で、そこに新卒の先生(女性)がきたんだ。 これはひどい、差別だと思って、わたしが中心になって反抗しだした。 学校に火をつけたり、窓ガラス割ったり、授業中にけん玉をやったりした。 目茶苦茶なクラスだっていうことで、毎日校長が授業を見張りに来ていた。 卒業記念アルバムを見ると分かるけれど、一組は詰め襟、セーラー服でばりっとした洋服なんだけれど、二組はぼろぼろの服なんだ。それがわたしの反抗の始まりということ。それまでは大人しい子だったんだ。

 話変わるけど、六一年に社青同に入り、六三年、わたしが社青同東京地本委員長になった時、葛飾支部に日軽アルミという民間工場の活発な社青同班(協会派)があった。 そこの全金の委員長丸山さんという人がわたしの姉と同学年で、丸山さんと話していたら、小学校の先輩だということが分かった。もし組合活動をやっていなければ重役になったって言われている人です。 彼に小学校時代の話をしたら、「いやあ、樋口君ね、わたしたちも同じような目に遭った」って言うんだ。彼は、「当時、精華小学校というのは、校舎の半分がアパートに使われていた。だから、学校の中から教室へ移動したことになる。わたしたちは三階アパート(教室)に寝泊まりしていて、二階の教室へ行ったけれど、わたしらのクラスにもそういう人はいた。 アパート(教室)にいるのは貧乏人。だから、わたしもひどい目にあった」と言っていた。「樋口君、わたしたちのS先生は悪い奴だったよ。Uだけではない」って。例えば、あの頃、子供銀行というのをやるんだ。 子供が学年全体で支店長、副支店長を決めて、銀行業務の真似ごとやった。支店長は一組だ、副支店長は二組なんだ。それから一組は金持ちだからいっぱい金の出し入れやっていた。二組は五円か一〇円で惨めだった。運動会で騎馬戦をやるだろう。そうするとわたしたちの二組の方が強いわけだ。日頃の鬱憤ばらしに一組をやっちゃうわけだ。すると、Uがすっ飛んで来て止めさせてしまう。騎馬戦だから勝負がつくまでやるはずなのに、途中で止めさせられた。散々差別されたから、反抗したわけだ。五年生で卒業式にでる時、送辞を読む人を二組にさせたんだ。そうすれば六年の卒業式には答辞を一組が読むことになる。こういうきたないことをやるんだな、と思ったから卒業式はうわの空でいた。樋口は態度が悪いということでやられた。とにかく、Uがわたしたちを見る目が、汚いものを見るような目付きだった。そういう目に遭った。卒業して高校へ行ってから、同じクラスが分かれて一組、二組になったのだから、一緒にクラス会をやろうと、話が一組からもちあがった。 そうしたら、 二組の女子たちはみんな嫌だ、どうも面白くない、わたしたちを見下していた。 樋口があれだけ反抗した理由が今になってよく分かったって。Uも来るというから、じゃあ、五、六人で集まり、あの野郎をぶん殴ろうという話になった。女の人たちももう癪に障るからって言っていたわけだ。向こうのクラスの奴にぶん殴る話が漏れて、一組から「それはわたしたちも見ててもひどいと思いましたよ。だけど、わたしたちにとってみたら恩師だから、殴るのをわかっていてクラス会をやるというわけにいかない」と、言ってきて、止めましょうということになった。

  —あの当時の小学校の先生ってのはもうちょっと少しは権威があったんじゃないですか。

 当時の小学校というのは、昨日まで軍国主義教育だったけれど敗戦になったら、今度は民主主義じゃない。 教科書は都合の悪い箇所は全部黒く塗ってあるわたしの一年生の教科書は、アカイ、 アカイ、アサヒ、アサヒ、ススメ、ススメ、ヘイタイススメ、だった、片仮名で。今度は、ヘイタイススメは消しちゃうんだから、教育の信頼はない。それと、当時、食料がないから先生も食えなかった。だから、金持ちの子どもの頭をなでて、付け届けさせるんだ。

  

—社会構造に規定されてたんですね。

 

 片親のわたしが反抗心を持ったのは、卒業した後に、担任先生(女性)が「わたしも実は悔しかった。ああいうクラス分けされてね。それで、樋口君が、あんたはませてるから、反抗する気持はよく先生もわかっていた」と涙を浮かべて言っていた。中学の三年、高校になったら、U先生はひどい野郎だったとみんな気がついた。

 それと、後、やっぱり、戦争の悲惨さかな。わたしの家は母子家庭だし、生活がたちいかなくなるわけじゃない。 二度と戦争は嫌だってそういう気持ちだった。それから、沖縄の人に比べたら、非常に申し訳ないんだけど、子供だからよくわからなかったんだけど、とにかく戦後は子供心に平和に感じた。いくつかあげると、まず、日本の軍隊のトラックというのは木炭車で走っていた。ところが米軍のトラックはすごい勢いで走っていくじゃないか。米兵は体格はいいし、それからジープを乗り回している。覚えているのは、日本橋の交差点、昔は白木屋って言ったが、そこはまだ交通信号がないからMPが真ん中に立って交通整理やる。その身振りがかっこ良くていいんだ。ヘー!と思ったもんだ。おじさんに連れられて、GHQから出て来たマッカーサーが車に乗り込んだところを見たこともあるけど戦後は平和で、とにかく民主主義だと感じた。後は、秩父のメーデーというと、赤旗が町中林立して労働者のデモでいっぱいだった。そういう点では解放感が子供心にもあった。戦争中聞いていたのはアッツ島の玉砕のことだけど、その展示会を見に行った。東郷神社のところに海軍記念館があり、そこも見に行った。ハンドルを回すと艦砲が動いたりしたのも見にいった。それから後、宮城県に引っ越した時かな、硫黄島玉砕の放送をやっていたのを聞いた。東京へ帰ってきて、蔵前橋の上から見ると一面焼け野原だから、富士山が見えた。食うや食わずだったけど、なんとなく明るい。しかし、闇市が、浅草、浅草橋、上野でもあった。そこは、当然テキヤが仕切っているわけだ。それから東京の街はガレキだらけで、電車通りだって、瓦礫の山、やっと電車が走ってた。夜は暗闇の中を歩いた。そういう生活を覚えています。

 だから、戦後民主主義というのはどうとらえるかという問題があるんだけど。確かに与えられた民主主義だよ。でも、わたしから見たら、軍人やおまわりが威張っていない、しかも平和だ。たぶん、米兵は日本で悪いこともしただろうけど、余裕があったんじゃないの。他の戦勝国は本土を破壊されているけれど、本土が安泰だったのはアメリカだけだった。オーストラリアとかあるけど。

 小学校五年か六年の時かな、後楽園に東京六大学法政と東大の試合を見に行ったことがある。もう、後楽園の観客席が長い木の椅子だし、観衆の服装が真黒だよ。要するに、洋服がないから色彩がないんだ。白黒テレビを観ているのと同じで、色のついた洋服着てないんだ。東大がぼろ負けしている中で応援団が一生懸命にやっているんだな。 アメ公が二人ベンチの上に飛びあがってきて、もっと拍手しろというように手振りを混じえてヘイヘイって東大の応援をやり出すわけだ。そういう点では日本軍のあの殺伐たる雰囲気とは大分違うなと感じた。それから、後、ジャズが流れてくるそして、映画の青い山脈とその主題歌は本当に戦後の解放感という、これからは明るい社会が来るんだと実感した。

 わたしが中学校の一年の六月朝鮮戦争始まり、また戦争が始まったかって思った。韓国軍が押されてアメリカ軍が行くけど、釜山の一角に押し込められた。その後米軍が仁川に上陸して押し返しだけど、あの朝鮮戦争は北による解放戦争だという話もあった。少年のわたしは、これは北が仕掛けたのでは、と思った。南が攻撃したから北がやり返したんだという話も聞いたけど、三八度線から押し返せばいいのに釜山のとこまろで進撃したというのは相当準備しなければ出来ないと考えた。うちの兄も小学校の高学年の時、社会主義の方がいいんじゃないかということは話していた。金持ちと貧乏人がいる社会は面白くない。だから、中学生になった時には、社会主義の方がいいに決まっているっていうふうには思っていた。

 わたしの兄は、松本治一郎さんを尊敬していた。松本治一郎さんのカニの横這い事件っていうのがあった。松本治一郎さんが衆議院副議長の時、席に着く時、天皇の前を通るのにお尻を向けちゃいけないという慣習があった。それは不敬だというので、カニの横這いのようにお尻を向けないように横に歩いた。それを松本治一郎さんは、そんなのダメだと言った。それはカニの横這い事件って有名です。それから、 松本治一郎さんはネクタイもしてないんだ。わたしの兄が、痛快じゃないかって言い、そうだと子供同士で話していたのも覚えている。

 東京裁判が始まり、そのラジオ放送の冒頭にバッハのトッカータとフーガが、地獄へ落ちるような音で始まるんだ。結局、東条は絞首刑が宣告された。 その時、 台東区三筋町にいた隣のオヤジさんが、「ざまーみろ、東条の野郎、死刑になって」と言って、飛びだしてきた。だけど、わたしは、東条は悪いだろうけれど、東条というより天皇の責任だと思った。 東条というのは総理大臣で偉い人と聞いたけど、日本は天皇制なんだから、何故天皇が裁かれないのか不思議だった。それから、引揚者がどんどん旧満州から帰国してくる。この人たちは悲惨だった。だって、わたしが高校に一緒になった友人の家族は、ソ満国境から逃げて来る時に妹を連れてこられないから親が妹の鼻をつまんで二人殺したという。それから、三筋町の家の前に住んでいた食料品屋さんの人も連れてこられなくて赤ちゃんを一人殺したと言っていた。そういう悲惨な話は聞いています。今から三〇年くらい前までは、NHKの最終番組の後君が代を放送して日の丸が翻った。その画面になると、本能的に消した。 そしたら、周りにいる同志たちが、なんでですかって聞くから、わたしは本能的に拒否反応が出ると応えた。

 

 わたしが小学校五年の時、台東区には子供議会というのが出来た。 区議会の会場を借りて各小学校の生徒が男女一人ずつ来て、子供議会っていうのをやる。 その議会でいろんな決議をやるんだ。わたしは二期生なんだけど、一期生の時に、台東区に上野動物園があるが、上野動物園には象も虎もみんな殺しちゃって豚とか馬しかいなかった。どうしても象が欲しいと子供議会で話し合い、 名古屋の東山動物園に象が一頭か二頭残っていたから、それを貸して下さいという決議をやった。 使節団が、 東山動物園で象に乗っている新聞の写真を見た。お願いしたけど、叶えられずに使節団が泣いて帰って来た。次にわたしらの時、インドのネール首相に、象を下さいという決議文を送ったら、ネール首相が”インディラ”と娘さんの名前を付けて象を送ってくれることになった。インドが送ってくれたんだ。それで、その引き渡し式に、わたしともう一人女の子と引き渡し式に出た。 五〇年の二月の寒い日だった。インドの大使が来て、 吉田総理大臣もいて、目の前で英語を話していた。 わたしは、この人が吉田茂さんかと思った。 以前マッカーサーも目の前で見たけれど。

 だけど、戦後は空襲がなかったけれど、貧しかった。治安は悪かった。強盗や殺人というのがよくあった。それから後、上野の山や地下道に、戦災孤児が大勢いた。それはかかわいそうだった。わたしは親父が死んでほろほろの家だけど、まだねるところがあっていいやって思った。 この前テレビでやっていたけど、実際、戦災孤児はほんとに大変だった。それでも健気に助け合って生きてきたっていう話だけど。食えないから戦災孤児はかっぱらいやなんかやるわけだよ。少年スリのことをチャリンコって言うのだ。ところが、今、自転車のことをチャリンコって言うだろ。だから、チャリンコって聞くと、わたしはドキッとするんだ。 それから、“星の流れに身を占って”という歌があった。アメ兵相手のいわゆる売春婦の歌。そういう人も、食うや食わずでいたのだろうと思う。 そして、傷痍軍人の、悲惨な姿も見てきた。だから、戦争は嫌だ、平和はいいなって思った、わたしらの世代は表面しか見られないところがあったからアメリカに対する親近感があった。実際は、沖縄では今でもひどいめに遭っている。それから、日本を占領した米軍だって悪いことをいっぱいやっている。 でも、なんとなく日本に民主主義をもたらしたっていう気持ちはあった。

   

—共産党だって解放軍って言ったぐらいですからね。

 

 もう一つは中国に対する親近感だ。これは、戦争負けた何年後かに聞いたんだけど、蒋介石が「以徳報暴」ということを言ったんだ。暴に報いるは徳をもってせよ。これは感動した。 「敗者を辱めてはいけない。そうすれば復讐心が蘇り悪循環になる。だから、ここでわれわれは罪を許すんだ」と蒋介石は言った。蒋介石に対する負の評価があるとしても、これは今あまり語られてないけれど、当時の日本人には感動を与えた。わたしなんか小学校高学年になってその話を聞いて、中国人は偉いなって思った。それに比べてシベリア抑留をやったスターリンはなんだ!と思った。日本軍は、日清戦争から始め何年中国侵略している?狭義にとらえたって、一九三一年の柳条溝から一五年か。広義にとらえれば日清戦争以来でしょう。約五〇年。わたしは、安倍首相の言っていることは腹立ってしかたないけど。「侵略戦争の定義は、国際的に決まってない」 なんてふざけるんじゃない。日中戦争は日本の領土でやりましたかっていうことだ。戦争は、全部中国の領土でやったでしょ。 それと、日本軍には中国兵の捕虜収容所は記されていない。もうこれだけでも話になりません。以上のことで、日本の侵略戦争だったという証明です。しかも、“暴に対しては徳をもってせよ”ということで、一〇〇万の日本軍を返してくれたんだから。 極悪分子が処刑されたことはやむを得ない。一方、中国人民解放軍は戦犯の思想教育しているんだ。 そして、極悪の軍国主義者が悔い改めて帰って来るわけだ。そういう意味で、蒋介石の「以徳報暴」も、中国人民解放軍は大したものだと思う。右翼などには、内戦があったから、日本軍が残留したら困るから帰国させたと言っているが、それは違う。旧軍にしたら負けたって

いう実感がしないって言っているけど、道義的に負けたというのは根本的敗北だからね。戦後の親中感情というのは、無法なシベリア抑留に対する反ソ感情に比して大きかったと思う。ライシャワー大使が、日本人の親中国感情は、理屈じゃ考えられないって言ったけれど、 わたしはそう思った。

 中学の一年ぐらいから、うちが食うや食わずになった。 それでも、三年三学期になってから、昼間の学校に行けと言われて、どうせ授業料も入学金も払えないのにとは思いながら、試験を受けて入学した。成績は悪くなかった。

 高校へ行った時に、もう金がないっていうことを分かっていて、アルバイトをしたが、授業料はすぐ払えなくなり、学校のUという悪い担任に「お前、 タバコ吸うのか、悪い奴とつきあってのか、授業料はみんな酒呑んでるのか」って言われ、「何言ってるだ、食えないからじゃないか」って言い返して、一ヵ月半で辞めた。その時、朝礼で、悪い生徒が辞めたと校長が言ったそうだ。わたしは辞めて、兄が勤めている、ボール紙を卸している板紙会社にすぐに働き出した。わたしが、仕事が終わって帰る途中、 出身中学の校長先生(稲葉校長)に出会った。よくわたしのことに目をかけてくれて中学三年の時、校長室へ呼んでお菓子をご馳走してくれた。「樋口君、どうだ、元気か」って言うから、「高校辞めました」って答えたら、「えっ、なんで辞めたんだ」って聞かれ、「あんな都立サラリーマン養成所なんかはいやだ」と返事したら、「ああ、そう」かって。「まあ、がんばりなさいよ」と言われて、別れた。

 それで、働き出してすぐ上野高校の夜間へ通学したんだけど、まだ一五歳の少年が二五キロの紙を朝から晩まで担いでいたら、体できていないから持たない。直に夜間高校をやめた。それでまた翌年、また近所の高校行ったけど、やっぱり体がもたない。そこもすぐやめた。高校なんか出るのを止めようと思ったけれど、兄も夜間高校を続かなく一度やめ、また台東商高の夜間へ通い出した経験があるあるから、「お前な、高校ぐらい出ないと彼女もできないぞ」って弟のわたしに言った。「下手したら結婚もできないぞ」って。「いいよ、中卒だって、人間次第だ」って、わたしは強がりを言ったら、「まあ、いいから」って言って、学校へ行って「わたしの弟は半分ぐれかかっていて、 酒呑んだり、喧嘩して回ったりして困る」と、先生に相談したんだ。その結局、授業料はちゃんと払うこと、授業はきつくても半分は出ること、試験は零点でもいいから追試を受けること。 それを真面目に実行すれば卒業させる。そういう約束でわたしは入学した。 二年生にすぐ編入されたけれど、やっぱり最初は学校に行かなかった。兄から「このまんまじゃ、お前、駄目だぞ」って言われ、卒業だけはしようと思い酒くらってでも行った。疲れていてグーグー寝ちゃって授業なんか聞いてなかった。

—その定時制っていうのは何人いたんですか?

 六〇〇人ぐらいいた。ところが、卒業するまで半分辞めちゃうんだ。くたびれちゃって。 台東商高は、江戸の被差別民の頭であった浅草弾佐衛門の屋敷跡であると聞かされた。当時吉野町といい、多くの靴工青年が通学した。 また山谷地区も近く、簡易旅館や古着屋を営んだり飲み屋さんの子女も通ってきた。 とにかく、 わたしも卒業だけはしなければいけないと、授業は聞いてないけど通学したわけだ。 三年生になって体力も出来てきて、学校に行く気力も出てきた。 三年生一学期歴史の時間があり、担当の須永先生が来て、 わたしのことを嫌っていた。酒をくらい、真っ赤なくつ下を履いて来る、そういう生徒たちがいてわたしもその一人だと思っていたんだろう。授業が始まった時に「歴史を学ぶということは5W1Hが重要だ。 この中で一つだけ違うのは何か?」って先生が質問した。 わたしは手を挙げて、「WHYだ、これは歴史の見方、他のは歴史の事実だ」と答えたら、先生が「そうだ、史実と史観だ。 なぜかということが、歴史を学ぶ上で一番面白いんだ」と言ったわけだ。 それで、九時過ぎ、学校終って校門から五、六〇〇人の生徒がいっぺんに出て来るんだよ。 定時制だから翌日仕事があるから、さっさと帰るわけだ。当時給食がなく家に帰って飯食うんだ。 そしたら、先生が待っていて、オーイ、樋口、って、追っかけて来て、「君、今の境遇は君にそぐわないけど、やけになっちゃいけない。三方ヶ原の戦いで、徳川家康は負けて切腹しようとしたけど、家臣に諌められて恥を忍んで逃げた。だから、後に天下取れた。切腹したら終りだった。君はまだ若いのだから前途がある。今度、先生の家に遊びに来い」と話してくれた。後日、先生の家に二、三人で行った。そしたら、先生はビールを出してきて、社会人として対応してくれた。

 これを契機にわたしの生き方が変わった。五七年に社研部を作ったのだ。日共の先生が二人いて、後から二人入って来て先生が四人になり、生徒が七、八人集まった。その中に水道局に行った山崎雄司君もいた。彼も昼間の学校に行き芝商高の特待生で、彼は、全国ソロバン大会で入賞しているんだ。でも結局、家が商売に失敗して彼は夜間に転校してきた。 わたしは二年遅れたから学年は同学年になり、彼を社研部に誘った。小島という満州から引き揚げた瓦職人もいた。瓦ふくのは大変らしい。二階から落ちて大けがした。地面に着くまでの落ちる瞬間わかるっていうのだ。そいつも社会主義が正しい、俺らは社会主義のために学習しようと集まった。他の部員は世の中の矛盾を考えていたから、資本主義が悪いということは分かっていた。わたしが説いたことは、金や株や貴金属を持っているから偉いのか。そうではない、船底にすっからかんの者と、特等室に金持ちとが同じ船に乗り、無人島に漂流した。 そしたら、どうなるか、金持ちが金銀財宝をあげると言っても何の価値もない。一生懸命働いて衣食住を確保する方が大事だ。人間は働く事から始まるということを話した。今から考えてみると、労働価値説だ。そういうことで、みんな生活の矛盾を感じていたのだ。誰かが稼いできて生活が成り立つのではない。みんなで働いて生活が成り立つ。定時制の生徒はそのほとんどがアパートや住み込みで生活していて、一軒家に住んでいる人はあんまりいない。ところが社研部じゃまずい、弁論部にしようと、顧問のYとK先生二人が言った。理由は、勤評が通って先生たちは大変だからと。わたしは、先生は評論家だなって思った。日共の先生らしいと気付き、反感持ったのが一つ。そして、もう一つは、苦学している勤労青年をなんとかしたいという救済者然とした態度に見えたんだ。わたしらは社会人だと、酒も飲むしたばこも吸う、自力でやるのだ、世の中の辛酸を散々なめてきているのだという思いがある。 わたしはその先生を尊敬しなかった。どことなく偽善的に見えたのだな。 やっぱり、須永先生みたいに言った方がよほど身に滲みた。四年生になり、樋口、生徒会長やれって先生たちに言われたが、これは校長先生の意向だったようだ。他に立候補者がいたけど、全校投票の結果生徒会長になった。それからは、真面目に学校へ一年間行った。普通、夜間高校は教頭に任せ、校長はいないらしい。ところが、清田英一校長は偉かった。朝来て、夜九時までいるのだから。東京中そんな校長はいなかったはずだよ。以前に一回、わたしは労働組合作ってストやろうと考えたことがあるんだ。 小沼良太郎東京一般の副委員長(後に台東選出都議会議員)のところに、相談に行ったけれど、一七、八の少年には労働組合作ることが出来なかった。結局、私と一緒に卒業した人たちは、会計事務所、上野の赤札堂に入社した。女性では、一部上場会社に兄がいてそこに入社できた人もいたし、後は電話交換手になった。そういう程度です。比較的いいのは水道局に入った山崎雄司。もう一人は税務署にいき、数人が区役所に入った。男で、浅草のテキヤに入った、そういう者もいた。わたしの場合は、卒業が迫ってきた時に、校長室に呼ばれていくと「君、卒業後どうするのか」と聞かれ「夜間を出ても行くところないし、別に考えていない」と答えた。そしたら、校長が言ったのは、「君、早稲田か中大の夜間法学部行かないか、昼間は、わたしの教え子が弁護士事務所に行っているから、そこに勤めながら司法試験受けろ。君は絶対やれるはずだ」って言ってくれたのだ。その頃、司法試験が難しいと知らなかった。わたしは「気がのらない」って言うと、校長先生は「じゃあ、樋口君、わたしの高校の時の同級生が今貿易会社やっていて、そこから一人いないかって頼まれている。トランジスター・ラジオの輸出をやっていて面白いよ」って勧められた。そういうところならばやってみたいなとわたしは思った。世の中がおかしいから、革命やりたいけど、その前に貿易会社へ行って広い世界を見てみたいなっていう考えもあったんだ。その貿易会社に入ったのは、五九年六月。社長は外務省出身だし、会長も元大使だった人だ。

—今はないんでしょ。

 今もあるらしい。当時は銀座にあったんだ。社員はそんなに多くなかった。最初の仕事は通関手続きを任されたが、二カ月ぐらいで覚えられた。輸入業務はあんまりなく、トランジスターを中心に輸出。その業務をやってるうちに仕事はけっこう面白く、そのうち、自分で対外取引をやらなければならず、社長に、夜の津田塾に英語を習いにいけと言われた。だけど、どうも英語なんか勉強する気にならなかった。横浜に二日に一回行き来し、通関の手続をやったり、メーカーに交渉に行ったり、そんなことをやった。貿易会社というのは面白いんだ。当時は月の前半というのは暇だった。わたしなんかやることないんだ。 LCが入ってくる後半は、めちゃくちゃ忙しい。年末は一五日を過ぎると仕事がない。 午前中は手紙がきてるかなというぐらいで、だいたいお昼でわたしらの仕事は終わり。仕事は面白かった。昼休みやなんか、わたしは英語の勉強しないで、『資本論』読んでいた。それから『帝国主義論』も読んだよ。さっぱりわからないけど。一生懸命読んだ。その会社には面白い人たちがいて、一人は海軍大尉のゼロ戦のパイロット。上空から一撃でB29一機を撃墜したって言った。それから、沖縄に、特攻機の援護して行き、特攻機を送った帰途に、P38という双発の戦闘にライトを照らして追っかけられたって話していた。P38の方がスピードがあり、まともには逃げられないから、海面すれすれ一〇メーターをジグザグで逃げ、追撃をかわしたそうだ。全身汗びっしょりで、もうこれはだめだと思ったって言った。そんな話もしてくれた。それから、空戦の時は大変だった。真黒になって入り乱れて何が何だかわからない。この野郎と思うだけとも言っていた。そういう空戦の話もしてくれた。

 それから、もう一人は、旧満州で、連隊旗手をやった人がいた。一番優秀な人が旗手になる。敗戦でシベリア抑留になった時にソ連側のエージェントになったらしい。要するに、日本兵を洗脳する手先になったんだって。だから、共産主義のことは知っていた。それからマルクス、レーニンの本も一通り読んでいた。 酒飲むとワルシャワ労働歌なんかも歌って聞かせた。 それで、抑留生活はどうでしたかって聞いたら、うまいものは食べた。それで、洗脳の成績のいい者かソ連が指名しダモイ=帰国だってね。 それは、ソ連の方から人を指定して、その役割を高いところに立ってダモイ!って宣告するのだって。そう言われた人は喜んで顔がくしゃくしゃになる。あの顔は忘れられないって言った。自分はソ連の手先でいい思いしたから、帰るときには、みんなと一緒の船に乗ったら日本海に放り投げて殺されちゃうから、他の部隊に紛れ込んで日本に帰って来たって言った。当時シベリアでエージェントになった人は、帰国後にソ連の諜報活動をやりますという誓約をして帰って来るんだよ。 「幻兵団」って記事が新聞に出ていて、そういう記事を読んだ。それを問うと、「実はオレのところへ来たけれど追い返した」って言った。彼は、シベリアで偽装転向したのだろう。

 ロンドン軍縮会議に外務省の随員でいった吉岡さんがいた。当時かなりの歳の人だった。ロンドン領事もやった人だ。その人がロンドン軍縮会議に、山本五十六と一緒に行ったって。山本五十六はどんな人ですかって聞いたら、「ただの男だよ、 将棋を指したことがある」と言った。

 社長は、中国人に対してはすごく親近感持っていた。「同文書院出身で、中国人は立派と常々話していた。しかし、諸外国が中国人を貶めてきた。イギリスとかフランスなどが上海に租界を持ち、その中の公園の入り口に、ドッグ・アンド・チャイニーズ・オフリミット(犬と中国人は入るな)って書いてある。日比谷公園に「犬と日本人は入るな」って言われたらどうする。中国人が怒るのは当たり前だろう、それが判らなければダメだよ」と言った。わたしは、社長は立派だなと思ったよ。 「中国人は、商売でも騙さない。かれらは腹一つで、契約書もいらないし、信用取引をするから立派だ」と言う。一方、朝鮮の人に対してはすごい蔑視なのだ。韓国からオッファーが入って来たの。わたしがその実務やっていたら、騙される、止めろっていうのだ。周りの人が、まあまあ、社長、L/Cがきたのだからやりましょうよって、社長をなだめて取引を進めた。 社長がいない時に、わたしが、「日本人の中にも朝鮮の人を蔑視する人がいます、それはいけないことだと思う。その典型が社長だ」って言ったら、みんながうわーって笑ったことがある。 それと、社長と吉岡さんの二人とも言ったのは、軍人は嫌いだって言うのだ。吉岡さんは、負けた時に外地にいて、敗戦時の軍人のうろたえ方は見ていられないって言った。社長も、連合軍に交渉したのは自分たち外務省の人間がやったのだって言っていた。軍人は日頃、軍刀をガチャガチャやって脅かしていばっていたが、戦争に負けた途端に、怯えちゃってね。なんだ、こいつらって思ったと、言っていた。 外務省も嫌いだって。外務省は、ノンキャリアだって入省するのはものすごく難しいのだ。 キャリア組とノンキャリア組の差というのは、天地ほどの差があった。だから、自分は外務省には二度と行きたくないって、二人とも言っていた。

 

 六〇年安保闘争が始まった頃、わたしと若いタイピストは安保反対で、吉岡さん、社長は安保賛成なんだ。復員帰りは黙っいて、安保反対とも賛成とも言わないんだ。タイピストの人が、吉岡さんに、おじいさんは黙ってらっしゃい、今の世の中知らないのにって言ったら、なにを!って怒った。それから、わたしが、 「憲法には軍隊持たないって書いてあり、自衛隊は憲法違反だ」と社長に言ったら、「それは確かにそうだよ。だけどね、それが政治なんだ。 それがわからなきゃ、ダメだよ」と反論された。 そんな議論を会社の昼休み、六〇年安保の最中にやった。その討論の最中に、「日本はなんで無謀な戦争をやったのか、戦争は絶対反対、だから安保反対だ」ってわたしは言ったら、若いタイピストたちが、皆同調した。日本の真珠湾攻撃が無謀な戦争だったことは一致した。 そこは全員が認めるんだ。 そこから先議論が沸騰した。真珠湾攻撃は、アメリカが仕組んだワナに嵌ったのだ。外務省の紫暗号機が、アメリカに解読されていた。コーデル・ハルが最後通牒を出した。それに対する訓電が来て、ハル国務長官のところへ栗栖と野村大使が行くわけだ。持って行く文章を、ハルは事前に解読しているから、日本の手の内は全部わかってるわけだ。 宣戦布文は、タイプのミス(これ自身は外務省の大失態である)で、真珠湾攻撃後に持って行き、騙し討ちになった。ところが、ハルが、騙し討ちだと怒ったのは、お芝居なわけだ。 その時、ルーズベルトは、ホワイトハウスを不在し、ハワイにいるショート陸軍司令官と、キンメル海軍元帥にはなんら警報を発してない。ハルへ通告前に、日本からの訓電をすべて解読しており、日本が開戦することは分かっていた。ハワイ、フィリピンに対して警戒警報を発していないというのは、結局、日本に先制攻撃させ開戦に持っていくアメリカの策略に引っ掛かったんだということを、わたしが言ったわけだ。社長と吉岡さんが怒ったのは、外務省の失態だっていうことをつかれたことだろう。その時も、復員組は黙ってんだよ。わたしが、あれは”騙し討ちじゃない”、騙し討ちを仕組まれた〝騙せ討たせ〟だって言っても、復員組の人は黙っているんだ。

 そういう雰囲気の中、わたしは、痔の手術後、六・一五の頃に退院してきて、家で静養していた。そうしたら水道局勤めている山崎雄司君が、水道局のデモに行かないで、夜学連の方に参加したんだ。 六・一九の自然承認の日、わたしのところに飛んできて、「今日はいかないやつは国民じゃない、デモに行こうよ」って誘うから、「そうだな」と応えて、一晩首相官邸前で、全学連の部隊の中に入って山崎と二人で座り込んだんだ。その後、一〇月浅沼稲次郎委員長が暗殺され、これはもうなにか行動しなければいけないって思った。

 六一年の夏過ぎだろうな、まだ、わたしは会社へ勤めていたんだけど、森田さんという社会党台東支部書記長。戦前は、治安維持法で捕まって四年ぐらい陸軍刑務所に入れられ、拷問も受けたと言った。戦後、沖電気の労組書記長をやり、二・一ストもやって、レッドパージをうけ、その後、火炎瓶闘争などに疑問持ち、共産党を離れ社会党に入党。その人が、わたしの中学の時の友達の家へよく来ていて、その人の勧めもあり、社青同を作ろうと考えた。

—社青同が結成されたのはいつですか。

 安保闘争の後、全国社青同は、六〇年一〇月結成。 それで翌年、だから、まだわたしは銀座に勤めていて、家は足立にあった。もともとわたしは台東区に住んでいて、わたしが住んでた家はぼろ家だけど残っていたので、そこをアジトにして社青同結成の準備を始めた。山崎雄司君は、職場の新宿支部に入らないで、結成する台東支部へ入ろうと言った。全国セメント書記のS君、合同出版に勤めていたY君、瓦職人K君、台東商高(定)の友人中学時代のY君などを集め、それから旧青年部の人も呼び入れて、六一年、一一月に社青同台東支部を作ったんだよ。 準備会を作って結成大会に至った。六二年二月にわたしは、森田書記長に勧められ、会社辞めて社会党の地区オルグになった。

—常任みたいなかたちですか。

 

 会社を辞める時に、社長と専務格の人に「樋口君、君がマルクスに夢中になるのはわかるけどね、恵まれない環境で進学を断念したんだろう。会社でお金を出すから、早稲田の二部へ行けって」と勧められた。だけど、わたしは、「いや、社長、わたしは革命やります」と返事して、会社辞めて、社会党の地区オルグ(専従)になり、同時に社青同の活動を行った。

—専従というのは、収入あるわけですか。

 当時で給料は一万三千円ぐらい金くれたんだよ。その前はわたしは会社で二万もらっていたから、少なくなったけどね。 オルグになって、今度、社会党の会議も出るようになったわけだ。全逓浅草をオルグして同盟員を獲得した。 全逓浅草というのは、宝樹委員長の出身支部で、そこに、勇ましい連中が何人も社青同に入り、問題になったらしい。

—共産党という流れはなかったんですね。

 うちの党派で言えば、共産党をくぐったのは、玉川氏だけだ。

—それは、なんか理由がありそうな気がしますね。 それ、結構大きい問題かもしれませんね。

 

 佐々木慶明が五八年頃左派社会党の党員でしょ。彼の寮連運動というのは、社会運動が中心でしょ。

—これは新左翼全体考えた時にけっこう大きな位置を占めてるんですよ。

 六〇年社青同結成に参加した活動家たちは、官僚主義の共産党に拒否感を抱いていた。それで、社会主義協会の松木君は、病棟で共産党の機関紙アカハタを見せられて、オルグされたそうだ。どうしても違和感を持った。なぜかっていえば、共産党は上からの指令で、話をしていても全員が、『赤旗』に書いてあるとおりのことを言い、したがって、柔軟な思考の、山川均に魅かれたと語った。

 台東商業は、わたしが卒業して、後輩たちが、弁論部を実質的に社研部を再建した。彼らは顧問の先生が日共党員だから、全員民青に加盟。ある時、社研部の後輩ところへ行くと、「実は先生に言われて、わたしたちは民青に入りました」 って。民青も、共産党もおかしいと話した。彼らは、勤労青年だから、自分の実生活から考え、観念的ではない。その時にわたしが話したのは、「共産党は自主性がない。上から言われたとおりに行動するのは、民主、平等の社会主義の目的と違う。その当時、中ソ論争が顕在化してきた頃なんだ、周恩来が、ソ連へ行って、演説した時にみんなが拍手した。すると、フルシチョフが拍手しなかったのを見て、みんな止めたっていうんだよ。新聞にも記事が出ていたよ。これが共産党の本質だよって説明した。一番上の者に従うことは、どういうことなのか。これがほんとに社会主義か?平等な社会を目指す人間のやってることか」と問うた。 そしたら、部長が、「確かに変だな」って言うわけ。それで、次に、顧問の先生(日共の地区委員)とわたしが、社研部全員の前で、論争したわけだ。わたしが 「二つの敵、民族民主統一戦線というけれど、おかしい。結局、『赤旗」と「前衛』に書いてあることを言うんだから。みんなわかっているから、論破した。聞いていた部員たちは、樋口先輩の言っているのが正しいと言って、民青辞めて、社青同に入った。その頃、民青の地区委員A君と上野の喫茶店で交流やろうと二人で喫茶店で話したんだ。 話しているうちに論争になって、「君たちは二つの敵、民族民主統一戦線と言う。アメリカ帝国主義としか闘わないじゃないか、と批判されると、日本の独占資本とも闘うと、二つの敵、二元論を展開する。だが、それは独占資本との闘いを回避するための二元論ならぬ、逃げる論ではないか!区内に軍事基地はなく、アメリカ帝国主義と何処で闘うのか、ガソリンスタンドでも襲撃するのか!」と追及すると、悔しい、負けた」と言って帰ってしまった。

—五〇年代の雰囲気とは違う。がらっと変わってるんですね。

 六〇年安保闘争以前の社会党員の中には「獄中の一八年、天皇制と闘った唯一不屈の党」といわれ、自分は日和見主義であり、革命の本家日共には行けないと、コンプレックスを抱く者もいた。また、六〇年社青同結成時の同盟員の中には、対日共、民同青年行動隊もいた。だが、社青同結成に参加した多くの無党派青年労働者は、六〇年安保闘争の中で、戦う全学連、労働者人民に敵対し、「前衛」の仮面が剥がれた日共に対しコンプレックスも期待も抱かなかった。あの歴史的三池闘争に於いても日共の活動は全く見られなかった。日共を乗り越え、社会党を変革する政治的展望もって社青同に結集したのだ。この傾向は各支部、労組青年部末端において強かった。

—五〇年代の雰囲気とは違う。がらっと変わっているんですね。

 

 社青同に結集した無党派活動家たちは、日本帝国主義は復活・自立したと認識していた。 それで、日共の民族民主統一戦線は、民族主義だ。独占資本が復活しているじゃないかという思いが強いわけだ。一方、社会主義協会の理論は、待機主義、革命はまだ遠いとそれまでは学習してこつこつがんばる。ブントの一部にあった今こそ決起しろというのは、その裏返しだと批判した。

—学習会路線でしたよね。

 でも、若いから、社会主義がすぐ実現するのではないかと、ロマンを持った。そこへ構造改革論が出てきて、労農派のマルクス主義とは違う近代的な装いがあった。国家論などこれまでなかった論争が始まるわけだ。共産党が拡大したのは、六〇年安保闘争を通じてだ。 それまでは微々たる勢力なんだから。本格的に共産党が民民綱領を出してくる、それに構造改革派が出てくる。

—それに諸党派が対応してったんだね。

 結局、労農派も。日共と脱党構造改革派を相手に、われわれも鍛えられた。

—前衛党、吉本じゃないけども、あれは崩壊したと。けっこう対等になって時代に応じて登場し始めたという雰囲気なんですかね。

 もっと日共批判が決定的になったのは、六四年の四・一七ストライキ破りをやったことだよ。

—三池の影響も大きかったんじゃないですか。

三池で闘ったのは社会党系で、日共系は姿が見えなかった。これも大きかった。

—労働運動としては画期的ですよね。

 画期的だ。その前に、国鉄新潟闘争、 日鋼室蘭闘争、すごい闘争があったが、三池闘争は画期的ですね。全体としては社会党系。 三池の社青同に、 九州学連を担っていた九大ブントが合流していくんだ。 三池労組青年部は協会派ではない。かれらのグループは、桜木というペンネームが党派的表現であったようだ。

—あれは九大かなんかの出身の人ですよね。 学生の時、ブントだったんですか。 社会党自身も、戦前的な雰囲気からがらっと変わっていったとこを見ないとだめだですね。

 

 まだ、六〇年安保闘争時には戦前派の浅沼、鈴木、河上も健在で、変わっていく転換点ですね。

—新しい青年運動が起きるような時代背景があったと見た方がいいですね。

 社会党本部には、戦前派と軍隊から帰ってきた曽我氏、森永氏、その後、社会党青年部長は西風さんで、大阪を中心にして平和同志会、社青同結成を進めた。社青同結成を進めたのは、江田さんだ。 それで、『社会新報』発刊等、一連の党改革を推進したのも江田さんだからな。

—構造改革派の役割は大きかったんですね。

 その評価については、曽我さんから聞くと面白い。

—ブントにしても革共同にしても、共産党の流れでしょ。したら、社会党の流れが見えないんですよ。

 社会党総評ブロックは、六〇年の頃、絶頂期であった。

—民社党みたいなかたちで右がおん出て。

 浅沼さんが暗殺された後で、西尾も脱党し、野党第一党だし、社会党ががんばろうっていう時代なのだ。 わたしたちみたいに旧青年部と関係ない無党派青年がだんだん主力になっていくわけだ。

—それは、あんまり見えてないとこなんですよ。

 社青同は、社会党・総評ブロックの中にいたから、その動向に影響された。対応を誤れば、呑み込まれたり、弾き出される。そこが大変なところで、そういう政治感覚がないと、やれない。わたしが、鍛えられたところだ。

—そこが革共同にしてもブントにしても見えてないんですよ。

 解放派の学生運動出身者も同様で、見えてなかった。だから、六六年九月三日の東京地本大会で暴力を振るい地本分裂を引き起こした。

 当時の社青同東京地本は、社青同構成員の五分の一だった。 しかも、国会があり、政治闘争の中心を担い、社会党・総評本部が存在していて、政治の影響を諸に受けた。地本執行委員には、社会党・総評本部の書記もいた。そして、学生運動も盛んだよ。当時、社青同中央は、構造改革派で、六三年左派が東京地本を構造改革派から奪権し、わたしが委員長になった。東京地本委員長というのは、全国左派のリーダーを担うことになり、全国の左派に檄を飛ばすわけだ。 東京の委員長というのは、重要な政治的責任があり、全国の委員長と、対等だったんだよ。全国を左派で取っても、その関係は変わらなかったね。

—その場合、四・一七ストの問題で後でなるように、社会党と共産党との関係はどういう関係だったんですか。そこも意外と新左翼系って見えないところなんです。

 社会党が共産党に対して、圧倒的優勢だった六〇年安保の頃は、東京地評の事務局長は羽賀民重さん、高野実さんの門下生で、社会党員だけど共産党にシンパシーを持っていた。しかし、東京地評も社会党からは離れられない。総評は太田・岩井だから、当時、共産党の影響力があったのは、公労協じゃあ、国労の中に革同が四分の一ぐらいの勢力はあった。いくつか拠点支部があった全電通も全逓も、同様だった。全金、全国一般、全日自労には影響力が大きかった。

—労働運動失敗

 火炎瓶闘争の後、労働運動としては共産党はあまりやってない。六〇年安保闘争の中で共産党も民青も拡大していったわけだ。増やしていったわけだよ。闘争をやったわけではなしに、 『赤旗』増やして、歌え踊れで、共産党・民青を増やしたわけだ。共産党民青が闘った労働運動なんかなんにもない。共産党の戦前からの権威で細胞は拠点的なところ、関西でも中電とか、東京の中央電話局に、あったよ。それが六四年、労働組合決定に違反して四・一七ストライキでスト破りやって、それで、公労協の日共系拠点支部役員は全員首切られたんだよ。

—なんでそんな決断したんでしょうね。共産党は。

 七〇年安保決戦論で、それまで戦力温存方針なのだ。六四年、わたしが民青の都大会へ行った時、わたしの前に野坂が演説して、 七〇年には日本でも革命が起きて、ベトナムにはひと飛びで行けると言った。七〇年安保決戦に向け、四・一七ストは挑発だからストライキ反対したのだ。

—なんで共産党は労働運動やらないんでしょうね。

 あれは方針ないね。 なぜかっていうと、戦後、共産党中央は労働組合フラクションに反乱されることが続いた。だから、共産党が支配する独自の労働運動は形成されなかった。共産党というのは数はいたけど、大したことなかった。

—これが不幸のもとですよ。日本階級闘争の。大衆運動やらないんだもんね。これはひどい革命党ですよね。

 あの火炎瓶闘争で懲りて、宮顕が、所感派と妥協して中央の指導権を取って、六〇年安保で党勢拡大をした。 全学連が切り拓いていた闘争の後からついていって、運動の簒奪をした。結局、四・一七ストライキ破りで、民同に首を切られてしまった。スト破りしたのだから、民同の方に理がある。あの時、宮顕は、中ソ対立の中で、自主独立を唱え、形勢を見ていた。当時、愛国正義なんて言い、中国派が中央書記局を牛耳った。 それで、愛国正義で社会党主要打撃論を取った。中国共産党から示唆もあり、四・一七ストライキは挑発ストライキだといってスト破りをやった。それから、もう一つに、六四年、中国共産党の指示により、インドネシア共産党は九・三〇クーデターを決行したが、スハルト・ナスチオンの弾圧により壊滅させられた。その後、日中両党の会談が北京で行われ、当時の中国共産党中央(実権派)との間で「我々は現代修正主義と教条主義にも反対する」声明をまとめた。帰国寸前、毛沢東に呼び止められ、声明の破棄と武装蜂起を迫られた。九・三〇クーデターの結果を見ていた日共は、中国共産党と訣別し、議会主義に方針を転じていった。

—変質しましたね。

 東京の位置っていうのは非常に高かったです、ということじゃないかな。

—解放派のイメージっていうのをね、変な党派闘争的な意味だけじゃなくて、どういう意義があったのかっていうのを。あまり党派闘争的な観点は、七〇年以降の話だから。

 滝口理論の意義と限界というかね。例えば滝口の理論がなければ、早稲田でも、東大でも黒寛理論に制圧されたわけだよ。特にブント系には、黒寛理論に対抗できる理論がなかったんじゃないのかな。

—ブントっていうのは、関西しかなくなったんです。 東京は、マル戦派っていうのが、革通派でいたんですよ。後は、プロ通派の学生なんです、ほとんど。だから、黒田カクマルとの接点はなにもないんですよ、実は。知らないの。

 ブントの一部が革共同に流れたでしょ。ブントから解放派に来た者は、黒寛に反スタ等次々理論展開をされて参ってしまった、と語っていた。その時、滝口のNo6(レーニン主義批判と労働者階級の自立)は、黒寛批判の有効な武器となった。これがなければ、東大、早大も黒寛イデオロギーに制圧されたかもしれない。滝口のその後の六三年「共産主義永続革命論」は外部注入論そのものであり、解放派労働者に拒絶された。

――そういう意図でやったんじゃないですか。

 意図的かもしれない。成果で、早稲田の建設者同盟が社青同に入り、東大で社青同班ができたという。

—第四インターの織田進さんに会いに行ったじゃないですか。 そしたら、五九年前後の時というのは、みんなブントに行こうという動きがあったらしいんですよ。だから、自分は清丈にオルグされたって言ってましたよ。だから、 ブントの最初の会議、みんな来てんですよ。不思議なことに。そういうので呼ばれて行ったんだとかなんか言ってましたよ。だから、六〇年のあの前後っていうのは、いろんなところでものすごい再編が起きてたんじゃないんですか。

いったんばらばらになっですね。

—どうも一つの党派の見解だけで見ていると、なんか違う。

 総合性のある党派はなかったでしょう。六二年、滝口は著書(No6)で、労働者の存在とインテリの意識は、分離している、労働者自らは共産主義意識を持てない、インテリが教える、とするレーニン主義。外部注入論を批判した。即ち、「労働者は、自分自身で獲得できる」ということが、その精神であり、解放派の立脚点だと思った。六三年、滝口は「共産主義永続革命論」を提起して、共産主義者の独自組織について、六二年結成の「共産主義通信委員会」存在の歴史的必然性を述べたが、これは、労働者階級に外在し、外部注入する組織論であり、誤りである。労働者自身が、自身で選出し、指導部を信任することこそが原則である。労働者階級の信認を受けずに、“共産主義者〟を自己規定することは誤りであると考え、わたしは断乎反対した。

—解放派の外部から見ると、ある日突然に、 突然と言うほどじゃないですけど、七〇年になって、解放派がどんと登場してくるんですよ。学生運動風に言うとね。ここをね。だけど、一つの一〇年ぐらいの時代の中で、全国的にあれだけのものを作れたということの意味というのは、わたしは記憶に残しとかないとまずいと思ってんですけど。

 六四~六五年、原潜. 日韓闘争です。解放派の労働者が街頭へ出て行ったのは、六三年わたしたちが東京地本執行部を確立以後、産別班協作りに全力をあげた。東交、全逓に一〇~二〇以上の班が結成された。その闘争方針は、各支部で職場班の指導は困難だから、地本労対担当と共に、産別班協議会でその職場反合闘争を討議して決める。それが日韓闘争に向かっていく力だよ。それは協会派との論争を通じてだよ。協会派だって、学習会主義といっても、後の太田派は優秀だよ。そういう人たちと競い合ってきたわけですね、それから、学生戦線が伸びていったのは、自分たちには戦闘的な労働者がいるという確信があったからだよ。そのことがなかったら、ブントと同じになっちゃう。それが大きかったと思うけどね。

—革労協の前までをもうちょっとまとめてね。

 どうしても忘れちゃいけない人が二人いるんだ。一人は清水芳男さん。 佐々木慶明とは古くからの友人で、解放派には遅れて参加した。 初代全寮連議長をやり、この人が、労働大学事務員、社会党地区オルグをやり、六五年頃 川崎地区労協のオルグになり、やがて事務局長に選出された。 神奈川の解放派の基礎を作り上げたのは、この人です。民間労組に多くの拠点を作り、その活動が開花し、七〇年頃には、先行していた中核派と互角の政治勢力となった。もう一人は、北村正志君。この人は解放派学生運動の礎を築いた人。彼のカストロ的カリスマ性と陽気な大衆性は、革共同、民青に対抗し、学生運動の最大拠点早大に解放派の運動を築き上げた。わたしの『解放派私史』には記せなかったが、この二人は解放派史上明記しなければならない人物である。

—学生でいう全学連みたいなものですよね。

 それは違う。あと、社青同運動は、綱領があり、規約があり、反独占社会主義の統一青年同盟なのだ。たんなる連合組織じゃない。いろんな派が競存して、一つの政治組織を形成しているんだ。

 反独占社会主義、改憲阻止反合理化の基調を掲げ、解放派、インター、協会派は、インターナショナルの視点が欠落しているから、安保改定を加えよと主張した。 中央ー地本ー支部ー班の基本組織と、横断的な産別班協議会があり、各段階で大会、総会が定期的に行われた。そして、各派が運動と論争を通じて、競合、競存し発展した。お互いが学びあった点があった。青年、労働者、学生の全国統一組織であったといえる。そして五〇年経た現在に至るも、インター、構改派、大田派との間には同時代を共に闘い抜いた連帯意識が脈々と現存している。

 六二年頃からインターが行った三多摩の統一労組運動があった。組織労働者に対する不信の裏返しの面もあったか、とも思う。全力を挙げて未組織労働者の組織化に取り組んだ。 ある人が、「無から有を生み出した」と言ったが、実際、インターの諸君は、女子労働者を含めた二〇〇人規模の工場に労働組合を結成し、社青同三多摩の組織力を拡大した。このエネルギーこそ、六四年原潜、六五年日韓、ベトナム反戦闘争へと向かったのだ。今、格差社会、ワーキングプアの増大が進行している中で、これらの闘いの歴史的意義を捉え返し、現在の教訓としていくことが重要だと思うよ。

—その関係で、わたしも小田さんのところに行って話を聞いたきたんですけども。あの当時の第四インター、人数はわかりませんけど、全部学大に集中したらしいですね。 あの勢いっていうのはすごいですね。

 学芸大学っていうのは下層階級の子弟が多く入学しているとこだという位置付けだったんだろう。俺らは中小企業、お前らは、エリート企業だ、東大、早稲田、東女、日本女、そうではないかと、笑って言っていた。

 それから、六四年二月、第四回全国大会で、旧青年部と民同の小ボスグループが中心だった旧構造改革派の中執を、協会中心の左派連合がひっくり返した。その後、西浦委員長や、市議と地道な地域活動を行なった人だが、高見、南氏たちが社青同からいなくなり、残された若手構改派の埼玉の村上君、大阪、石川、鹿児島の人たちが、このままではわたしたちは左派連合にやられちゃう。左派連合に対抗するものを作らないと消されちゃう。また労働運動も民同に寄りかかったのではダメだということで意思統一した。 そこで、かれらが提起したのが、反戦青年委員会だよ。これは、村上君の話では、構造改革派の若手が、江田さんのところへ持っていったら、江田さんが、「反戦青年委員会は、傭兵ではダメ。志願兵でなければいけない」と。要するに労働組合の動員で集めたってしようがないって、江田さんに言われたと、後に、話した。 若手の構造改革派の人たちが、反戦青年委員会を提唱したんだよ。

 六五年、当時、構造改革派のバックにいた仲井富氏が、「東京で、青学共闘を再開しろよ」と、言ったことが契機となり、社青同東京地本、地評青年協が、一・二八集会を共催した。私が仲井氏に「民青はどうするか?」と問うと、彼は「反日共学生参加を拒否する民青など抜きで再開しろ」と言った。わたしが地本執行委員会に提起すると、多数は「民青排除、反共主義だ」と提案を反対したが、わたしは社会党都本部曽我書記長の支持の元、下山書記も強引に再開を進めた。わたしは一応、民青都委員会に参加を要請したが、「トロッキスト学生排除」を主張し、やはり参加を拒否した。 これを基礎にし、その年の8月、全国反戦青年委員会結成を成し遂げた。 江田さんを動かし、総評を賛同させた反戦青年委員会結成は、若手構改派の歴史的功績だった。

 それともう一つ、社会主義協会両派、特に太田派ですね。六七年の一〇月、太田派が、 向坂派と割れるわけね。これは、 向坂系学者の教条主義と、実践活動家グループとの対立だったと思う。確かに、太田派は、反戦青年委員会を巡り、私たちと対立関係にあった。しかし、全国で反合闘争を先進的に行い、現在でも民間を中心にその流れがある。 太田派は、東交反合闘争で、社会党右派と結び当局との妥協を図る向坂派と対決し、徹底抗戦した。特に六八年の二月新宿、三ノ輪路線全面撤去反対闘争では、解放派労学三〇〇名が三ノ輪車庫に支援に駆けつけ、人民電車動かしたんだ。でも、千住付近で架線を切られて停止させられ、機動隊と睨み合って、早朝まで山谷近辺で投石を繰り返した。 一方、新宿電車車庫支援に駆けつけた太田派労学は、人民電車が数奇屋橋付近で送電を断ち切られ停止させられた。 太田派活動家たちは、電車の屋根に上りヘルメットを被り、マイクで撤去反対をアジった。 また、新宿電車車庫近くの煙突に二名が上り「撤去絶対反対」の垂れ幕を付けてハンスト決行した。これらの闘いは新聞に大きく掲載された。解放派の闘いは霞んでしまったが、孤立の中、太田派と共闘した充実感が残った。向坂派ですが。 三池の反合闘争中、親段階は社会党員の向坂協会系。青年部は福岡社青同桜木グループの影響を受けていた。ホッパー前決戦後、三池第一組合は、長期抵抗路線を出した。これはホッパー前決戦に敗北した後退局面の中で力を蓄え反撃する機会を狙うということで提起されたのだ。 向坂協会派は、長期抵抗路線を、実力闘争抜きの職場合闘争方針に普遍化してしまった。さらにその後、向坂派は、三池労働者の苦闘を簒奪して権威付け、排他的学習会運動に専心した(大田派幹部によれば、新宿路線電車撤去反対闘争の最中、 向坂派は、労働者に対して「学習会をやろう」と呼びかけたと言う)。

 七一年、 向坂派は、社青同中央乗っ取りしたのをテコに、社会党の全国各県、支部で革マルもどきの陰謀的乗っ取りを謀り、七〇年代中期には社会党全国大会の代議員半数を握るに至った。その原動力は向坂氏を先頭にソ連、東独を賛美してお墨付きを得、社会党を日共に代るスタ党化せんとしたのだ。ところが社会党各派と総評の介入により、 その企図は挫かれ向坂派は零落した。

 見逃してはならないことは、社会党内の協会、反協会の対立と抗争の陰で、総評解体、帝国主義労働運動の再編が一挙に進行したことだ。動労松崎が国鉄民営化協力、国労破壊の先兵になったことを、「正しい路線転換」と評価する故樋口篤三に、 向坂派山崎耕一郎氏が賛同文を寄せたことは、自らがスターリニスト化(したがって親革マル)した当然の帰結かもしれない。幾度か山崎氏に「篤三に賛同したことは六〇年代社青同、戦前からの労農派の歴史を貶めるものであり、是非撤回してくれ」と、申し入れたにも拘らず、未だその意志が伝えられず、誠に遺憾だ。インター、構改派、大田派の諸氏も同様の考えであると確信している。国家主義者安倍自民党がのさばり、社会党を継承する社民党の現状を憂うる時、解放派の歴史的政治責任を痛苦に考える。

 六六年九月三日第七回地本大会で、協会派の壇上占拠の挑発に、暴力を行使し、自らの道義性を貶め、東京地本は分裂した。その後の向坂派のスタ化=伸張を許し、社会党解体に至らしめた責任は、当時東京地本執行部、とりわけ委員長樋口の責任は重大であり、六〇年代の社青同、社会党の同志に自己批判します。同時に壇上占拠した協会派に対して、角材を持ち込み、実力行使を密令した滝口と追従者には、その反動的行為を階級闘争の歴史に刻印し、弾劾しなければならないと考える。

—樋口篤三さんって、いつの時点でそうなったのかっていうのは興味のあるところです。

(インタビュー・二〇一三年五月)